【第1回】 相性のよい土屋先生と私(頼ってばかりの私)

芳賀高洋(お茶の水女子大学附属中学校)

つい先日、「ウェブに、通り一辺倒の著者の人物紹介を掲載してもつまらない。出版物には掲載できないようなものをウェブに載せましょう」と、くろしお出版のさんど社長と密談しました。

さんど社長本人は著作集の悦楽と題してコラムをすでに掲載していて、その中で、土屋先生との著作集の編集過程のやりとりや人となりに触れています。

そこで、まずは、他の人が知らないかもしれない土屋先生をちょっとだけ知っている私が書きましょう、ということになりました。

今後、他の方にも書いてもらうつもりですが、大変僭越ながら私が第1回著者の人物紹介をさせていただきます。

ただし、コレクションに照らして言うと、私は第5巻「ディジタル社会の迷いと希望」、第6巻「インターネット・学術・図書館」の側面から見た土屋先生のことしか知りませんので、その点はご了承ください。また、稚文・乱文ご容赦下さい。

さて、私は、土屋先生とはじめてお会いしたことを-いつごろ、どこで、どんな内容をお話したかを、いまでもはっきり覚えています。

それは、いまから15年前の1994年のことです。

私はその前年の93年から千葉大学教育学部の大学院生で、附属中学校の非常勤講師をしていました。

当時も今も非常勤講師の分際で、そんなことは、やってはいけなかったのかもしれませんが、私は「学校(小中学校)にインターネット回線を設置する運動」というゲリラ活動を個人的にしていたのです。「どうしても中学校にインターネットの回線を設置して、インターネットを教育で利用したい」と大騒ぎをしていました。

はじめのうち、その”運動”は、当の附属中学校はもちろん、大学のほうでもあまり相手にされなかったのですが、1年もすぎるころには、私の活動に賛同してくださる方が、ほんの少しですが、ちらほらと現れはじめました。

あるとき、私の指導教官の阿部昌人先生(退職)と現在 北海道大学教授の仲真紀子先生と、仲先生の研究室の卒業生で、当時、通商産業省 工業技術院 電子技術総合研究所の永見武司さんという方が、「芳賀さんの活動を助けてくれるかもしれない人がいる」と人を紹介してくださったのです。

その紹介された人というのが「文学部の土屋先生(大学の情報センターに関係している先生)」でした。

「文学部の土屋俊」という名前は、大学内では、他学部の学生にこそ、それほど知られていませんでしたが、知る人ぞ知る、知っていれば、泣く子も黙る有名な先生でした。

なにしろ、「喧嘩っぱやい」、「とっても怖い人である」、「こてんぱんにやっつけられる」、「ものすごく罵倒される」、「特に教育学部は大嫌い」というもっぱらの評判で、教育学部で土屋先生を知る者(教授、助教授、講師、学生、その他)は、みな、かなり恐れていました。

私もその評判は知っていましたので、「教育学部の附属中学校などにインターネットだのEthernetだのというのは馬鹿げている、けしからんと言われるに決まっている」と恐れをなし、紹介していただいたにもかかわらず、失礼にもこちらから土屋先生のほうに出向くことはしないでいました。

ところが、ひょっこり、本当にひょっこりと、土屋先生が大嫌いなはずの教育学部の校舎に現れたのです。

怒られるのかもしれないと思いつつ、挨拶をしたときの私の土屋先生の第1印象は、前評判とは180度違っていたと言ってもよいでしょう。

怖いはずの先生なのに、フットワークが軽く、行動力があり、賢くて、礼儀正しくて、腰が低くて、大学院生で非常勤講師の私のような者の話をよく聴いてくれて、とても愛想がよい大学の先生に思えました。

ヒヨコのすりこみ効果と同じで、初対面の方の第1印象はとても大切です。15年すぎても、私は、いまだに土屋先生のことを第1印象のままに認識しているしだいなのです。

さて、土屋先生の後押しがあってから、私の”運動”は、それまでと比べて遥かに進展しました。

土屋先生の先見性という意味で、少しコレクションに関係した話をしますと、「インターネット(Internet)」、「UNIX」、「インターネットの教育利用(for K-12」、「情報倫理(Information Ethics)=情報モラル」、「プレーンテキスト(plain text)」、「オープンソース」、「TeX」、「マークアップドキュメント(xml)」など、現在非常に重要な事柄となっている概念や技術について、土屋先生は、80年代の後半から90年代前半にかけて、おそらく日本でもっとも早くその重要性を見抜き、論文を書かれて、我々に紹介しています。

あまりにも先見性がありすぎて、当時、その論文なり記事なりを読んだ人間には、特に人文系の人間には、その意味を理解することができなかったことも多いのではないでしょうか。

たとえば、土屋先生がプレーンテキストは重要だなどと言っても、当時はPCで文書を作成することすら稀で、PCを利用していたとしても、たいていは管理工学研究所の松であったり、ジャストシステムのJS-WORDや一太郎を利用していました。一太郎の拡張子は、JXWであるという話は知っていたとしても、JXW形式は、実は当初プレーンテキスト形式だったなどということを知っている人はほとんどいなかったでしょう。知っていてもそれがどういう意味をもっているかを考えることなどしませんでした。

その当時、インターネットにまつわるいろいろな逸話をお聞きしたのですが、たとえば、土屋先生が「冗談だよ」と言いつつ語ってくれたところによると、日本のインターネットの礎を築いた石田晴久先生(当時東京大学)、村井純先生が、日本のインターネット接続を実現するべく米国スタンフォード大学に視察に訪れた際、そのころスタンフォード大学のCSLIに研究員として滞在していた土屋先生が、石田・村井両先生にインターネットを紹介し、なおかつ、お昼ごはんをおごったんだとのこと。

すなわち、日本のインターネットの黎明期にかかわっていた先生だったのです。

人文系の研究者として稀有の存在でしょう。

もちろん、哲学や言語の先生らしく、たとえば、メールの書き方ひとつにしても「まず相手の名前を書いて、つづいて本文を書き、最後に自分の名前を著名するのが正しい」、「土屋はtutiyaと書くようにしている」、「計算機のネットワークとは人のつながりであり、計算機やネットワークの先には人間がいることを忘れてはいけない」など、文字、言葉、あるいは人やモノに対するとらえ方について哲学者らしいこだわりと根拠を持ち、多視点からの示唆を我々に与えてくれました。

様々な示唆にとみ、先見性のある先生とのご縁があった結果なのか、日本で一番最初にインターネットを利用した中学生は、当時の千葉大学附属中学校の2年生、日本で一番最初にウェブサイトを公開した中学校は千葉大学附属中学校、正規の授業でインターネットを利用して授業をしたはじめての中学校教師は私ということに(調べたわけではありませんので自称ですが、おそらくそう)なっています。

当時は、インターネットの学校利用というと、かならず千葉大学附属中学校の名前があがり、テレビ、新聞、雑誌などで無数に取り上げられました。

もちろん、問題がなかったわけではありません。というよりも、問題だらけでした。

教育学部の附属中学校が、インターネットを利用する場合、まず千葉大学の校内LANに接続し、インターネットの利用は、千葉大学が外部接続する学術ネットワークを利用します。

国立大学はほぼ例外なくSINET(NACSIS-->SINET1-->SINET2)という「学術情報ネットワーク」に外部接続しており、「インターネットを利用する」ことは、「SINETを利用する」という意味でした(※千葉大学はTRAIN(Tokyo Regional Academic Inter-Network)にも接続)。

また、インターネットのアドレスとして、所属組織の性質を意味する2nd Level Domain(ドメイン名)は「AC(アカデミック)」でした(たとえば千葉大ならば例外なくchiba-u.ac.jp)。当時は「1組織1ドメインの原則」=「.comなど以外はDNSの設置は制限される」ということがあり、附属学校が単独でドメインを取得するのはほぼ不可能でした。(※学校向けとして後に JPNICにてed.jpが発足)


はたして、附属中学校は学術研究機関なのか?それとも単なる教育機関なのか?アカデミックな組織なのか? 黙認はしてくれるかもしれないが、SINETやドメイン名を管理しているJPNICの定款に抵触するかもしれないという問題があったのです。

さらに、当時は、1Mbpsの外部専用回線がひと月で何十万円、何百万円もした時代です。

附属学校は、生徒数が莫大です。生徒全員が何十台ものPCからインターネットを利用しはじめたら、ネットワークのトラフィックは莫大なものとなり、大学の先生方のインターネット利用に差し支えがあるかもしれない、という心配もありました。

にもかかわらず、土屋先生は「附属”幼稚園”にもインターネットを」と強くお考えでした。非常に先見の明がある先生だなという印象を私は持ちました。

最終的には、土屋先生が、ある時、全学の先生方とお偉方を集めて、「これからのインターネットは、”教育”である。学術ネットだから小学校や中学校が利用してはいかん、とは言っていられない。大学にとっても、教育利用こそがインターネットの活用の将来である。附属幼稚園をはじめ、初等中等学校が大学のLANとSINETを共有することをどうかご容赦願いたい」と、訴えいただき、正式に予算化もされました。

結局、インターネットというのは、人と人とのつながりなのだ、人間を結ぶことがネットワークなのだ、ということを教えてくれたのが土屋先生です。

私の思惑と土屋先生の活動とがうまい具合にマッチして、お互いに利を得ることになったのですが、振り返ってみると、私と土屋先生の間に、そういうことがこれまで何度かあったように思います。

そう考えると、土屋先生は、私とは年齢もだいぶ離れていますし、地位も仕事の中身も性格も能力も、私など足元にも及ばないですが、一言でいうと、土屋先生と私は「縁がある」、もっと言うと「相性がよい」のだと、私は勝手に思っています。

「学校へのインターネット普及」はそのひとつですが、もうひとつ大きな出来事がありました。

当時から、つまりは、日本ではまだインターネットが普及していない時代から、すでに土屋先生は「情報倫理(Information Ethics)」という概念を我々に紹介されていました。その中身は、コンピュータを使った仕事に従事する人の倫理-いわゆる職業倫理が主なテーマでしたが、「初等中等学校でこそ情報倫理がとても大切である」と考えていた我々学校関係者の「心配」を、その頃すでに予見なさっていたのです。

95年に「100校プロジェクト」という、学校にインターネットを普及させるプロジェクトが発足し、98年ごろにはだいぶ学校でのインターネットの活用が普及してきました。そして、我々学校関係者の間で、「学校と情報倫理に関するイベントをやりましょう」と考えはじめた時、すぐに思い浮かんだのが土屋先生でした。

ちょうどその頃、土屋先生は「日本学術振興会 平成10年度未来開拓学術研究推進事業 情報倫理の構築プロジェクト(FINE)」を、京都大学院文学研究科、広島大学文学部、千葉大学文学部という3者合同の研究委託先機関として活動をはじめていました。

私の思惑と土屋先生の活動がまたかみ合いはじめました。

我々学校関係者は「インターネットと教育研究協議会」をという組織をつくり、FINEプロジェクトから様々な援助を受け、また、FINEプロジェクトの教育部門の一成果として、99年「インターネットと教育フォーラム ~情報倫理~」を大阪で開催することができました。(※この前年に千葉大学で原点となるフォーラムを開催)

このフォーラムは、おそらく、日本ではじめて「学校と情報倫理(情報モラル)」を中心課題として取り上げたシンポジウムであったと思います。開催1週間前にはNHKの朝のニュースの全国版で予告されたほどで、非常に注目を集めたものとなったのです。

その後、このフォーラムは規模を拡大し、場所を東京の早稲田大学に移し、3日間で延べ6000名近くも人を集めた大規模なイベントへと発展することになりました。

そのすぐ直後のことです。

今度はいいことではなく、悪いことが起きてしまいます。

具体的には言及できませんが、学校とインターネットに関係した、まさに情報倫理の臨床とも言えるような事件が起こり、私はその事件の中心的当事者となってしまいました。

この事件のときなど、当時、大学の図書館長だった土屋先生のところに毎日おしかけていき、さまざまなアドバイスを受けたことを覚えています。

結局、この事件は、完全に解決できたわけではありませんが、いい形で収束させることはできました。それこそ土屋先生に負うところが非常に大きいと感謝しています。

しかし、立て続けに企画した大規模なフォーラム運営の疲れと、学校で起きてしまった大きな事件の疲れから、私は、学校やインターネットがしんどく感じられるようになりました。いつしか私は学校から少し距離を置くようになり、土屋先生とのお付き合いも、ここでいったん途切れてしまいます。

この時、私はずっと以前、土屋先生が何かのときにおっしゃっていた「現象」のことを思い出したものです。いわく、「インターネット5年の法則と言って、インターネットに5年はまると、みな疲れてインターネットをやめてしまう」

たしかに、やめてしまった人もたくさんいます。私は8年くらいはもったので、まだ長いほうだったのかもしれません。

さて、土屋先生とお会いしなくなって7年の歳月がすぎた昨2007年。

何の脈略もなく、唐突にもほどがあるのですが、私は土屋先生を、自分の結婚式に招待しました。7年もお会いしていないのだし、場所も東京からだいぶ遠いので、まさか、いらっしゃらないだろうと思っていたところ、来ていただきました。

土屋先生は、とても、律儀な方でもあるのです。

そして、今年2008年。

また土屋先生と仕事上のご縁が生まれました。

くろしお出版です。

私たちは、はじめは「情報教育に関わる書籍を作りましょう」ということでくろしお出版に集められました。

ところが、どういうわけか、「土屋俊 言語・哲学コレクション」の刊行に際して、私は立案の部分から見させていただき、またウェブ関連の仕事にかかわることになりました。

「土屋先生の著作集を刊行しよう」と、くろしお出版のさんど社長が言いはじめた現場に、なぜか、私もいましたし、土屋先生が「著作集なんて死んだ人が出すみたいで嫌だ、俺はまだ現役だ」とか、ジャンルが多岐にわたりすぎて云々とおっしゃっているそばで、「やっちゃえばいいじゃないですか。言語も哲学も、情報も図書館学もわかる人なんていないんですから、すごいものができるはずです」などと、少々不安気味だったかもしれないさんど社長を煽ったり、面白がったりしてしまいました。

ただ、おそらく土屋先生の研究生活にとっても、今回のコレクションの刊行は、とても大きな出来事だと想像できます。

土屋先生の授業は1度も受けたことなく、また仕事面でもほとんど接点がない私ですが、土屋先生にとっての大きな出来事にまたしてもかかわらせていただく幸運にあずかり、あらためて不思議な縁と、相性のよさを勝手ながら感じています……。

……いえ、そうではありませんね。

土屋先生にとって大きな出来事ではなく、私にとって大きな出来事があったとき、私はいつも、土屋先生を頼ってしまっていたのかもしれません。親でも子でもなく、ましてや学生の時の指導教官でもないのに、15年も前から何かというと、土屋先生を頼っていたことに、このコラムを書きながら(修正しながら)ようやく気づきました。あらためて、お礼とお詫びを申し上げます。

さて、そう気づいた以上は何とか少しでも恩返しをしなければいけないのですが……言語・哲学コレクションのウェブサイト作りをお手伝いすることくらいしか考えつきません。

土屋先生、今後、第2巻、第3巻……とたてつづけの刊行は、とても大変ですが、どうかお体を大切になさってください。

そして、これからも面白い研究や活動を我々に見せつづけてください。

まとまりのない人物紹介となってしまいましが、以上をもちまして、「土屋俊 言語・哲学コレクション 著者人物紹介」を終わらせていただきます。(了)



芳賀高洋(はがたかひろ) お茶の水女子大学附属中学校
技術科教諭。大学院時代の93年から千葉大学教育学部附属中学校の講師としてインターネットの教育利用を実践。その後、公立中学校、私立高校、国立・私立大学、農業大学校、都立特別支援学校(知的障害教育部門)、一般企業や社会人向けIT教育講師など、さまざまな教育経験をもつ。くろしお出版では、新時代 教育のツボ関連のシステム構築やウェブページの製作、ゼミの運用などを担当。