土屋俊 言語・哲学コレクションの第2巻を校了にした。デザイナーのスズキさんはカバーの色を、目の覚めるようなエメラルドグリーンに決めた。若葉の季節だからである。第1巻の刊行から5ヶ月後、季節は移ろっていたのである。第2巻は『心の科学の可能性』、哲学出身の著者にとっては、自身の学問遍歴を語ることになる序章の執筆はかなりの時間を費やすこととなった。

第Ⅰ部には86年刊行の著書『心の科学は可能か』(東大出版会)が収録されている。著者がこの本を執筆するために参照した膨大な文献、あるいはその批判、検討、そして言語と意味に関する研究法を意識して展開される緻密な議論には圧倒されるが、何より冒頭には、

「今まさに、新しい科学が生まれようとしている。あるいはすでに生まれつつあるのかもしれない。その科学が人間の心と人間の行為を対象とするものであることは確実である。」

と、記されているのが印象深い。

にもかかわらず、著者は現在に至るまでずっと「心の科学」や「行為の哲学」の研究を進めてきたわけではないし、今現在、当該分野の識者から、心に関してわれわれに向けて語られることはクオリアや意識に関すること、あるいは脳科学の成果に関することが圧倒的に多いように見える。

「20年にわたるご無沙汰を一気に解消し、クオリアや脳科学だけでは、心の科学の探求がまったく不十分であることを主張したい!」
本巻におけるそのような著者の熱い思いを遮り、速やかに序章を入手するために腐心したのは編集者であった。

しかしながら、ついには音に聞く伝家の宝刀にすがり入手できた序章が、ここ数十年の学問史としても読み応えがあり、しかも第Ⅲ部「心の哲学の新たな展開」としてまとめられた8篇の論考への簡潔なガイダンスになっていることは感慨深い。これらの論考が書かれた時期は、コンピュータが逐次処理的なものだけでなく、人間の頭の働きに似たことができる並立分散処理に機能をダイナミックに変えていった時期に符合する。

たとえば、第24章「便利なオフィスの設計について」(89年)では、コンピュータと人間の共同作業が現実になるような時代を予想し、
「たしかに計算機は、人間が持つ目的にとっての道具であるにすぎないが、共同作業の現場では、人間と計算機が共同作業をしているのである。したがって、オフィスの設計においては、人間と機械が混合したシステムを設計するという観点を忘れてはならない。そして、その設計で成功するためには、そもそも共同作業とは何であるかということに関して、担い手が人間であるか、機械であるかということを捨象して理解しておくことが必要であろう。」 
と述べている。

著者の卓越した洞察はさらに「共同作業」(共同行為)へと向かうことになると思われる(近刊『第3巻 約束破りの倫理と論理』)。その場合にも21世紀の哲学は担い手が人間であるか、機械であるかを捨象して考えなければならないということになる。

編集者とほぼ同年輩の著者は高校生の頃、映画館で「2001年宇宙の旅」を見たかもしれない。映画の中でコンピュータHALはモノリス発見から始まったミッションの全容を知らされながら、クルーに質問したり、話題にしたりすることが不可能な状況で共同作業に参加したために、重大な機能障害を起こしてしまう。その場面を思いだしながら読み進むと、2巻24章の最後はこう結ばれている。

「共同することによってはじめて人間の知的能力が実現するならば、個々の知的システムについて、いわば「完全、自己完結的な」知的能力を装備するということがいかに奇妙な目的であったかということを理解することができるであろう。わからないときには「他人に聞く」ことができるという「不完全な」能力こそが実は、人間の知的能力の基本であり、また、人工知能が目的とすることであった。」

HALは「完全、自己完結的な」設計で作られていなかったにもかかわらず、そのように振る舞うことを強いられ、耐えられなくなったようにも見える。
420ページを超える難しいゲラを何回も読むという得難い経験をさせてもらった編集者としては、20年の時を隔てて、まとまった形で再刊行されたこれら24篇の論考が、21世紀の哲学としての十分な資格を備えているように思えるのである。