先月パシフィコ横浜で開かれた第10回図書館総合展に出かける機会があった。大空間で催される100近い企業や機関によるさまざまな展示、同時に11会場で行われるフォーラムが3日間にわたって繰り広げられるスケールの大きな展示会である。
私はその二日目にDRF(Digital Repository Federation)主催の大学図書館員によるリポジトリ啓蒙の報告を聞くことができた。
そこでは、短期間に自分の大学に属する研究者のたくさんの知的成果物をリポジトリに登録させることができた図書館が成功事例とされて、報告がされているようであった。研究室を訪ねてリポジトリへの登録を勧めてもあまり成果が上がらなかったが、研究部長が、あるいは教務課長が会議で積極的に大学の方針をうたってくれてから登録件数が急速に増えた、というような報告が急カーブで上昇する折れ線グラフとともになされていた。
なるほど短期間に80を超える大学でリポジトリが構築された秘密がわかったような気がした。戦争中の町内会での金属供出のような熱気さえ感じてしまうのだ。
研究者の頭の中で生み出される知的成果を大学のリポジトリに登録させる根拠はそのような知的成果の対価は給与や研究費で支払い済みであり、もともとかなりの部分は税金由来のお金なので、情報公開すべきだ、というような理論構成になっているのだろうか。
「夏休みの、しかも日曜日に海辺のホテルにこもって、家族が浜で遊んでいる間に書いた論文」「科研費が途切れた年に着想したアイデアをもとに書いた論文」も給与や研究費で支払い済みなのだろうか。もしそうなら、海辺のホテルで火災が発生し、逃げる際に足を骨折してしまった場合は公務災害に認定されるのだろうか。
大学にいる人もいない人もあまり疑問を感じないのはリポジトリが公共インフラのようなもので、誰もが無料でアクセスできるし、そこに登録したからといって、そこに載せたものが商業的な価値が出ると判断して出版社などの企業がそれを著者の同意を得て利用するのをいまのところは妨げない、というところにあるのかもしれない。
しかし、理論構成上、対価は給与などによって支払い済みということであれば、お金に困った大学がその利用に制限を加え、自分たちのお金儲けのために使うことも考えられる。いずれにせよ現代の知的生産のほとんど全部を担っている大学で急速に広がるリポジトリは10年後の出版社をどのように変えていくのだろうか。私もその大きなうねりの中で翻弄されるのだ、という認識を持つことができた、有益なフォーラムであった。