----10月1日-----

カレンダーがめくられ、10月になった。

今日は都民の日で公立小学校はお休みだ。私は仕事に行ったが、小4の娘は母と近くの繁華街に出かけたらしい。最寄り駅の前で思わぬ出会いがあったと、帰宅後、報告があった。

2年前、クラスを受け持っていただいた女の先生と駅前で出会ったのだ。先生は目ざとく娘を見つけ、声をかけてくださった。

もう他校に転出したが、今日は2年前の学習発表会の時の経験を先生同士話しあうため、前任校へ赴く途中だったとのことだ。子どもたちは休みでも先生方は休みではない、というのも発見だったが、先生は娘が3年に進級した頃書いた手紙に返事を出さなかったことを気にされていて、何度も詫びられたそうだ。有り難い事だ。

先生も赴任先で新しいクラスが決まり、緊張の連続だったろう。ご自身にもお子さんがいる。それなのに子どもの書いた手紙を覚えていて何度も詫びてくださるのだ。

2年前といえば、高邁な教育改革を政策に掲げた首相が政権についたころではなかったか。その後、困難に挫け、あっさり政権を放り投げたことも記憶に新しい。

2年前の学習発表会では娘はリスの役をやり、わたしは尻尾を作ってやった。中に針金を入れて尻尾が上を向くようにつくってやった。

その後、娘は尻尾の用意ができない友達の分も作ってくれ、というので、私はもう1本作ってやった。

しかし、実際はそのような友達はいなかった。娘はリスの尻尾は上向きであるべきだと考え、リスの役をやるお友達全員の尻尾を上向きに作らせようとしていたのだ。

この考えは先生に見破られ、私は尻尾を量産しなくて済んだ。子供といえども、劇をやるのに考えがあり、いろいろ画策したり、時には反抗したり、泣き出したりする。そのような子どもたちを束ねて盛り上げ、劇をやって喝采をあびた後は教室で算数の授業をする。そうしなければ、各学期ごとの各教科の授業数を達成できなくなる・・・。

今はだいぶ大人びたわが子であるが、2年前のことはいきいきと記憶に蘇る。
人間とは何か?という問いにとっても、教師と学童が集う小学校は豊かな探索の場であろう。また、そこでおこる様々な問題の正しい解決の方向付けには、時の政権の空虚なスローガンより、いろいろな学問の蓄積や探求の結果が有効なのではないか。

しかし現状では、教育現場と大学の研究者は制度的に出会えないようになっている。これは双方にとって、残念なことだ。

でも、このバリアーを打破するのは以外に難しい。出版社などのメデイアも、一部の大手出版社を除いて、大抵の出版社は業界出版社化していて、教科書出版会社、児童書出版会社、教師や行政向け参考書出版会社はそれぞれの業界内で販売面でも、著者との付き合いの面でも充足しているケースがほとんどなのではないだろうか。かくいう、くろしお出版も語学系業界出版社として充足しているはずなのだが・・・。

そこに登場したのが

『新時代教育のツボ選書1 読み聞かせで親しむ環境倫理』 小長谷有紀編
 くろしお出版 近刊 

である。

小長谷有紀氏は国立民族学博物館教授。ご専門は文化人類学、とりわけモンゴル、中央アジアの遊牧文化だ。

しかし、小長谷氏はフィールドワークを通じて痛感した地球環境の変化や、日本とは異なる家族観を持って行動している現代モンゴルの人々との交流をとおして、家族のデザインや環境倫理など、多方面にわたる関心を育んでこられたようである。今回の企画も人類の歴史上、脈々と受け継がれてきた語りの場が劇的に失われつつある中で、学校での読み聞かせにその活路を見出そうというユニークな企画である。

それにしても、語学系出版社であるくろしお出版で、荻原眞子氏をはじめとする10名もの著名な研究者を引き連れて、書籍を編集してくださった大胆さには恐れ入っている。このご厚意には何としても企画を成功させてこたえなければならない。

ここで小長谷氏の前書きから少し引用させていただこう。

『世界中の伝承文芸について研究する十人の研究者が、たくさんの研究資料のなかから比較的小さくてまとまった作品を十三点とりあげました。それぞれの作品について、読み聞かせに要する時間について目安を分単位で記してみました。・・・

動物だけではなく山も川も人と区別なく話をしている民話を読む、とくに聞き手のいる学校で、声を出して友だちに読む、そうした生き生きとした場であればこそ、たとえ文字の中とはいえ、自然を身近に感じることができるのではないでしょうか。そんな感覚を提供することが、全体の中の一部にすぎない私を理解し、環境問題に接するために一番大切な考え方が具体的に得られるのではないかと考えます。・・・

二十一世紀を生き、二十二世紀(―それがあるだろうことを期待して―)につないでゆく子どもたちに求められているのは、これまでとは少し異なる生き方です。自分の身の回りで起きていることから体験的に分かるという範囲を超えて、地球全体に対する想像力が要るに違いありません。それを環境倫理と呼びましょう。

世界の伝承文芸はそもそも、環境汚染も環境破壊も今日のような状況ではなかった時代から受け継がれてきたものですから、環境問題に直接的に関わる話題が盛り込まれているわけではありません。その代わりに、どの地域にも自然とのかかわりを描く物語がありました。山に入るときの掟や、川のせせらぎを聞くときの妄想、田畑に神を導く願い、そうした思いと関係する民話、伝説、神話、民謡などなど、自然との交渉を描く物語が、それぞれの地域にたくさんあります。物語のなかで、さまざまな動物や植物、あるいは山や海や川が、人と対等に、あるいは人を超越して、人のように話をします。そうした物語はたしかに荒唐無稽なのです。そして、だからこそ、自然環境に関する想像力をかきたてることでしょう。・・・』

この本では授業での読み聞かせを想定しているようであるが、いま、全国各地で「朝の読み聞かせ」という取り組みをやっている学校が多いと聞く。

うちの学校でも保護者会の後などに、ママたちが集まって順番を決めて毎週のようにやっている。朝、子どもがお気に入りの本などを持参して、クラスで読み聞かせるので、働いているママたちも比較的容易に参加できるところが長続きする理由の一つかもしれない。時には自分が子どもの頃、母親から読んでもらった絵本などを読むこともある。

これはもう立派に書承による伝承になるだろう。本書の執筆者には、加藤康子氏、内ヶ崎有里子氏など、児童文学の世界で活躍されている方も多いのは頷けることである。

とはいえ、いざ本が完成しても、どのように教育現場に届けられるのか、クリアしなければならない課題は多い。

しかし、時はインターネットの時代。インターネットには互いに離れて閉じられている水晶玉を結びつける魔法が隠されているかもしれないではないか。

この魔法を活性化して利用することはとても面白いことだし、なにより、ほとんどただ、というところが嬉しい。この悦楽は幼児の頃、友達と雨上がりの大きな水たまりで遊んでいたころを思い出させる。にごって底が見えない水溜りに長靴で入っていくときのわくわく感、皆で傘でかき回し跳ねる泥、顔をしかめる大人たち・・・。

ということで今回は著作集ではないが、新たな悦楽のお話でした。